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トピック

1971年アメリカ入国

フリートーク
#1
  • chichi1234
  • mail
  • 2013/08/28 18:18

このびびなび利用者は年齢的読者は少ないとも思われましたが、、、

1971年アメリカ入国者との友好を考えています。

当方は、1971年春の入国で『大阪三井商船のアルゼンチナ丸』でした。

その後、

YMCA Hollywood
New York Hotel(Little Tokyo)
Fellowship house
Cambria(? ケンブリアAdjust school)

等々に縁のある方との親睦を再現したいと願っています。

多くの方々からの連絡を待ちます。 よろしく。

#2

当方、貴会の参加条件に該当しませんが、当時の日系人の歩みに関心がございます。
ぜひ、生のお声で後世に語り継がれますよう、貴会のご発展を祈念いたします。

#3
  • chichi1234
  • 2013/08/29 (Thu) 09:59
  • 報告

エール投函有難うございました。

多くの参加者を期待しています。

#4
  • エドッコ3
  • 2013/08/29 (Thu) 22:33
  • 報告

当方、1970年6月に PanAm DC-8 Fairbanks 経由で JFK に着きました。

迎えに来ているアメ車のデカイことデカイこと、VW Bug がスバル360に見えました。
大統領はニクソン、流行っている曲はカーペンターズの Close to You 。

1971年1月に西海岸サービスステーション開設のため LA に赴任。NY 出る時が
18°F、午後4時 LAX の温度が 76°F、ラヂオから流れる曲は Lynn Anderson
の Rose Garden 、西部に来たなぁって感じ。

#5
  • kuji
  • 2013/08/29 (Thu) 23:01
  • 報告

確か伯父さんが74年頃からNY駐在。
ジョンレノンが撃たれた時には近くで仕事をしてたらしい。

#6
  • chichi1234
  • 2013/08/30 (Fri) 06:32
  • 報告

アメ車、Nixon、Carpenters、John Lennon懐かしいものばかりです。
ガソリンが20セント台で私も最初に買ったのが中古のキャデラックでフィンの出っ張った憧れの車でした。
ちょうどベトナム戦争末期で、アメリカ全体も60年代までの旺盛な発展からの転換期でした。
SFから始まったヒッピー文化の全盛期にアメリカ上陸したわけですが、、、毎日UCLAのキャンパスで英会話目的でNorthridgeからヒッチハイクで通勤(?)したことを懐かしく思います。

私の思い出の曲はDoorsのRider on the stormでした。:-)

#9
  • 無関係なんちゃって
  • 2013/08/30 (Fri) 09:02
  • 報告
  • 消去

73年、羽田からSF経由でシカゴ、ホームステイの家族の車
でシカゴからS.Bend, Indiana,、日本の中学卒業したばかり
の15才。SFまではJALだったので、機内ではおねーさんが
和服ででてきましたね。子供の一人旅だったので気を使ってくれてファーストクラスのほうに座らせてくれました。
当時は、ビジネスクラスなど無くて、ファーストとエコノミーの
2クラスだったと思います。

#8

「ニューヨークホテル」は懐かしかった。 東京會舘。 ボーディングハウス。倉田百之進さん。 遠東楼。 ホキ徳田さん。

#7

1971年代。外国とは正義のアメリカにハワイ経由で三井商船ぶらじる丸でロングビーチに到着しました。日本隣国の韓国は空恐ろしい軍事独裁政権下。遠い中国は何か解からない文化革命時代。日本では特権階級の大学生によるベトナム反戦と日米安保反対運動が流行。五木寛之の青年は荒野をめざすのタイトルに動機ずけられ無謀、無知、無計画、無責任、ナイーブな若いとき強い好奇心と冒険心だけで着ました。まだよき強いアメリカ。ヒッピー。花のサンフランシスコ。カーペンターズ、ファーストフードが少数時代の見てくれが良い女性がウロウロ。知り合う日本人(女性少数)は個性の強い目的を持った燃えてる人が多く数歳上の人が人生の大先輩に見えた。バックパッキングで世界一周するとか、ヨーロッパに行くとか沢山の人がいました。私も感化され南米を一年かけて旅行して来ました。ケンブリア アダルトスクールで約一年楽しい遊び学生生活。そのご二年生大学後四年生大学はクラスについていけず沈没。いまでもあのストレに耐えて死ぬほど勉強したアメリカの大学卒業の日本人を尊敬します。何か自分史みたいですが、同じ時代に生きた世代です。













#10

懐かしいかぎりです。
書き込みの人で同じ頃、ケンブリアに在籍してた人も居るかも、、、
一度、学園祭で各国からの出し物で日本からは『娘道成寺?』を大学のオドトリアムを借りてやったのを思い出しました。
確か校長の名前ガーシュマンでしたか???
1ドルが360円の時代でしたね。

#11
  • chichi1234
  • 2013/08/30 (Fri) 16:52
  • 報告

次々の書き込めで、涙溢れそうな心境です。
確かブラジル丸は秋の航海だったのでは、私の乗船したアルゼンチナ丸は春で到着はSanPedro港でした。 次々の他の出迎えから、一人取り残されて、スラムの中のGreyHound駅経由でHollywood(YMCA)に辿り着く。 そこはゲイの巣窟だったようで、危なくその仲間にされるところでした。。。。
アルゼンチナ丸航海中は2週間強の退屈な船旅ではあったが、何もない中にも数組のカップルが誕生し、後日LAで結婚のゴールインしたのもあった。 (日付変更線での仮装Partyでの女装して『黄色いサクランボ』をウィッグとミニで熱演したのも良い思い出です)
五木寛之の本は私のバイブルでもあったのは事実でした。 その後の放浪世界旅行は今では私の心の財産となったのです。 南米、アフリカ、ヨーロッパ各地の美女との遭遇?は夢の中での出来事の様です。

ps; この年末でもここで知り合った方々との忘年会でもと考えています。 参加希望者はメールしてください。

#12
  • Love and Light
  • 2013/08/30 (Fri) 20:27
  • 報告

1972年6月にJALのジャンボ機でLAに上陸いたしました。$1が¥360の時代です。当時は東京からLAへは直行便はなくホノルル経由でしたので、ホノルルで入国、税関の手続きをしました。私は東京出身なのですが、リトル東京に初めて足を踏み入れ某金物店のショーウインドーに置かれていた昔ながらのネズミ捕りを見た時には、ショックを受けました。当時のリトル東京のランドマークは川福と言うレストランでしたね。一番、栄菊なども懐かしいレストランですね。

#13
  • chichi1234
  • 2013/08/30 (Fri) 21:07
  • 報告

Nixonショックは確か1971年でしたので、72年以降は急激なドル安ではなかったですか?
今から思い出すとこの時の衝撃は『福島原発事故』以上でした。

勿論、所持金は僅かであった私には殆どドル安の恩恵は受けませんでした。

私は岐阜から出てきましたので、東京の都会の方々よりはそのショックは少なかったですけれど、BigMacをすごく高く感じ、、、LittleTokyoでは『マサゴ』Restaurantに度々行きましたが、もっぱらNewYorkHotelの隣にあったCoffeeShopで有り余る時間を持て余し、、その後をどう進むか?に悩んでいました。

その頃、NewYorkHotelに定住している日系の老人から大戦中のキャンプ内の事とかその後の差別の話を聞きましたが、、、あの方々は今何処に・・・・我々のことをNew日系と揶揄していましたね。 その後も、各年代でUSAの日系人も色々に様変わりしました。 バブル時の日本人が去ったことはよかったと思います。

#14
  • 紅夜叉
  • 2013/08/31 (Sat) 07:43
  • 報告

>その頃、NewYorkHotelに定住している日系の老人から大戦中のキャンプ内の事とかその後の差別の話を聞きましたが、、、あの方々は今何処に・・・・

1971年で老人、もし生存して見つけたらギネスに申し込んでやりましょう。

#15

ケンブリア英語学校は新移民が早くアメリカに慣れる目的でだれでも、観光ビザでも無料で行ける公立学校。今のアメリカ経済状況からするとありえない夢のような学校が実在していた。それに且つ日本人、メキシコ人、台湾人や少数のヨーロッパ人男女の社交の場、出会いの場。毎日が合コン。早いもの勝ち(他人より早く誰でも知っていることを教えたり、車に乗せてあげたりすること)私は根拠なき劣等憾があり日本女性の前では顎筋肉が動かない症状になり、おいしい経験なっかた. MISS,SENORITA,小姐 (現代中国語では水商売の女性の意味)。日本語の未婚の女性呼称で悪いこともしていないのに スミマセンお嬢さんで呼びかけてご無礼になるかなーと思うと 勇気がでませんでした





車と言えば成功者、金持ち、アメリカ富のシンボルのキャデラックでなく、あのヒーロー スチーブマックイーン 映画BULLETサンフランシスコの坂道を猛スピードで追跡するあのMUSTANGです。何回も映画館で見ました・DVDやビデオがない時代。 あの時代日本の若い男性が欲しい物は あらゆる経費を節約して借金してでも手に入れたい。車 くるま。何せ女性とお知り合いになれるナンパ強力なツールでした。トヨタセリカに詩集か文学書をさりげなく置いて達者なその分野に長けた話術で騙し、なみ子さんから知的な女性まで数人殺したその犯人の名前は大久保清先生。名前は間違いかも?今頃、 この物が溢れている日本で車でぐらいで感動するようなパンツゆるゆるLADYは少数でしょう。今は車は単なる交通手段の道具。私たちの価値観も変化しました

五木寛之の小説の青春の門は有名ですが 筑豊編
以外ソフィアの秋。大河の一滴 などロシアや東欧


が多い様に思えます。なにか思いいれがあるのでしょうか? 青年は荒野の、、日本ナホトカ、ウラジオストック、シベリア大陸横断鉄道、モスクワ そして白人美女のフィンランドへ。このルートを発見して行った勇敢な日本人先駆者がいたんですね。日本より南周り船でマルセイユ。シベリアで死ぬ思いをされた抑留された人には申し訳ありませんがそれらの地名がロマンチックで幻想にふけって いつか行こうと思っておました。












Bullett サンフランシスコの坂道を猛スピードで追跡するあのマスタング (ムスタング)です















#16
  • chichi1234
  • 2013/08/31 (Sat) 10:57
  • 報告

40数年前を回想しているんですね。

NYHotelの連中は今はほぼ天国でしょう。。。。

ぶらじる丸さんが一番距離が近いような雰囲気を醸し出していますが、一度お会いしたいですね。

質問で、
1. 71年入国以外でも大丈夫? との問いがありましたけれど、特に入国年を特定しているわけではありませんから、その時などに興味がある方の参加OKです。

コメントいただき、色々なものが走馬灯のように蘇ってきました。

お金がなかったし、又ロングヘアーが全盛で一年に数回しか行かなかったですが、カットしてくれた今WellerCourtがある床屋Masudaさんは今何処?

日本では見なかった邦画、男はつらいよ、網走番外地等を見たリンダリー劇場、LaBrea, Crenshowにあった劇場はどうなったのか? (Little Tokyoにも一軒ありTotal4劇場の邦画が見れた)

1stとSanPedroのコーナービルの地下にあった玉突き場は?

EvergreenのFellowShipHouseはいまもあり、あのヒッチコック映画にあるお化け屋敷が残っていた。

当時は英語の勉強?を最優先に考えており、日本人とはあまり交流がなかったのではあるが、、、71年の春から72年末まで2年近くLA(Northridge方面)に滞在した。

英語も全く話せないような状態でLATimeに広告掲載して、SchoolBoyになる。 (その面接をNYHotelのロビーでしたのだが、、、、あのカラ度胸を今は信じられない)
色々と面接してユダヤ系家庭を選び、そこで1年ほど御厄介になった。

#17
  • 御意見無用
  • 2013/08/31 (Sat) 11:20
  • 報告

>今WellerCourtがある床屋Masudaさんは今何処?

WellerCourtからビレッジに引っ越ししてリタイアしてオレンジカウンティーで暮らしているようです。

#18
  • chichi1234
  • 2013/08/31 (Sat) 14:12
  • 報告

Masudaさんの所在も判りましたか? 忘年会?の時でも参加してくれませんかね。。。。。

自分自身も既にSocial Security年齢ですが、、、存命であれば幸いでした。

NY Hotelのカウンター管理のご夫婦は今何処?

#19
  • chichi1234
  • 2013/08/31 (Sat) 14:16
  • 報告

カンブリアAdultSchoolで親しくしていた方で名前も忘れてしましたが、、、、 その中で特に親交があった。

小野長蔵(?)
森脇修(?)

両名は今何処? たぶん日本帰国かな?

#20
  • エドッコ3
  • 2013/08/31 (Sat) 17:45
  • 報告

私は当初駐在員として来たので、トピ主さんよりちょっぴりリッチだったかな。(^^;

それでも月の給料がなぜか手取り(決め)で $500。Studio のアパートが $125で、食費を抑えれば貯金ができ、1年頑張ってハーレー・スポーツスターを買いました。日本ではセルとキックの両方付いていて当たり前だったのに、どちらかを選ばなければならなかった。勿論、安い方のキック式を買いましたが、背も体重もないためケッチンって言うんですか、あれが酷く慢性捻挫でした。

実は、日本では学生の頃からスカイダイビングをやってて、こちらではいくらでも高く上がれるので憧れていましたが、それと同時に中学の頃から無免許でオートバイに乗っていて、東京の「みゆき座」でやっていた Peter Fonda 主演の「Easy Rider」を見てからは、オレも広いアメリカでチョッパーを乗り回すんだ、と叶わぬ夢を見ていました。

現実には、チョッパーに改造することなく、毎週末 Topanga Canyon から Mulholland に入り、道が消えるところまで飛ばしていました。ガソリンも一番安い時はレギュラーのガロンが 25¢。Woodman と Saticoy の Texaco。

#21

他人の名前こういうところで断りもなく出してしまうのはどうかと思いますが。問題ありませんか?

#22
  • chichi1234
  • 2013/08/31 (Sat) 22:45
  • 報告

イヤハヤ、、、72年末までいましたが、Tapanga Canyonからヒッピー村を抜けてZuma beach(当時のサーフィンのメッカ)は私の一番のデートコースでした。。。。

イージーライダーには私も憧れました。幕開けのBorn to be wildにはほんとノックアウト状態でした。

最初の一年は大人しく、学生ポイ生活をしていたんですが、最初の目的の世界ヒッピー旅行に向けて、ガツガツ仕事をしました。

当時は皿洗い、ガーデナのHelperが一般的でしたけれど、EncinoのHoward Johnson(後にHilton)のWaiterに潜り込みました。 (英語も片言で、特にカクテルのオーダーを聞き取るのに一苦労しましたが、バーテンが超美形のお姐さんで可愛がっていただき何とか職を続けられました。。。。当時のガールフレンドにメニュー、マナーを毎日特訓で扱かれたのも今では良い思い出です) この彼女とは今でも親交がある。

Hiltonに変わった時にHollywood(Vineland)にTransferされたが、今のUniversal Studioの近くで有名人(Movie star, musician)の映画関係のお客が多く、チップもたんまりで当時としては、たぶん一番稼いだ日本人ではなかったか?

日本ではちょっぴりバンド活動もしてMusicには興味があり、Schoolboy先のパーティーでは憧れにアイアンバタフライ(Rock group)とも親しくなった。当時は変な日本人として色々なところで興味を引いたんでしょうね。
しかし、女性には日本ほど縁が無くて、当時相当落ち込んだのも事実です。 (何故不細工な日本女性がモテモテだったのか今でも理解できない。 アメリカ人の美的感覚が大きく違うのでしょうね)

ps; 本名を出すのは拙いのでは?との投書があったので、今日のニックネームで尋ね人

ニック、スージー、木村さん、トシさん、ケン、ユキエ、John,等などですが、もしご存じの方あれば、一報乞う。 -:)

#23
  • エドッコ3
  • 2013/09/01 (Sun) 10:15
  • 報告

> EncinoのHoward Johnson

そうだ、あそこは Howard Johnson でしたよね。405 から下りてくると目立つ存在でした。Hilton になってからかは忘れましたが、親戚や出張者を泊めたことがあります。

> 今日のニックネームで尋ね人

どんな名前でも、もし我々と同じ年代なら、探し当てるのは’万が一’のチャンスじゃぁないですか。私も同じオートバイで Palm Desert へツーリングに行った彼氏や、俳優 James Franciscus の家でスクールボーイをやっていた K 君にも会いたいが、まず不可能でしょう。あと1セメ 25¢のアダルトスクールで出会った彼女も、成り行きから結果的には、このもてないオレがふったような形になってしまってから会っていないが、今会えたらゆっくり当時のことを語り合いたい。

#24
  • chichi1234
  • 2013/09/01 (Sun) 11:49
  • 報告

アイスクリームと言えば、思い出すのが、、、、

スクールボーイ先のFamiliyが質素だったのか? その食事がシンプルであったのが意外であった。 (彼ら曰く、食べ物に興味がある内は文化人でない云々とか???)
育ち盛りで夜中に空腹に耐えられずにこっそりと冷蔵庫からIce creamを盗み食いし、いきなり10キロも体重が増えたのにはまたビックリでしたが、、、その上醜さも増したのには辟易でした。
当時から痩せてないのは文化人でないとか?云々。。。

しかし、あの時夜中に食べたアイスクレームの味は格別美味しかったです。

その家庭の食事は主に下記の通り;

ハンバーグ Or
ウインナー Or
スパゲティー Or
TVディナー &
サラダ(レタスとトマトのみ)
飲み物はRoot beer(これがコーラ以上に変な味と感じた)
そして、Once scoopのIcecreamのみ、、、

毎日がこの繰り返しで、、、当時不思議に思ったのがプール付きの大邸宅に住みながら食べ物には興味がないアメリカ人を同じ人間と思われなかったのである。

しかし、街に溢れていた人々は異常に肥満型で10キロ太った後の私がスマートだと羨ましがられたのにも不思議な思いでした。

ps; 40数年前を回想し、その時々に出会った方々または時間を共有した方々とお会いできればとせつに願っています。:-)

#25
  • 2013/09/01 (Sun) 15:49
  • 報告

’75にSFに駐在員で来ました。 ’78にLA転勤になってそれ以降、LA界隈に住み着いています。
仕事で米国のあちこちに出張しましたがLAが一番住みやすいですね。

#26
  • chichi1234
  • 2013/09/01 (Sun) 19:00
  • 報告

2000年にSemi-retirementするまではJBAメンバーの日系企業との取引でヒョットしたら何処かでお目にかかったのかもしれませんね? (その話は又後日とします)

76年はバイセンテニアルでしたが、日本から多くの旅行客が押し寄せた時期でしたが、その時はTravel Agency務めでした。
(この話も又後日 :-)

LAでは駐在員の中でUSAに住みついた方も多数しってますが、やはり家族優先で決断された方が多く、良くその話で相談を持ちかけられたこともありましたが、、、、さて、その賛否は如何に?

#27
  • 憧れは失望に繋がる
  • 2013/09/02 (Mon) 11:36
  • 報告
  • 消去

>LAでは駐在員の中でUSAに住みついた方も多数しってますが、

駐在員できてグリンカードを取得して退職した人がいます。

駐在員給料で良い思いをしていたのに今頃どうしているのか気になります。

#28
  • kuji
  • 2013/09/02 (Mon) 13:47
  • 報告

それでもアメリカに住みたかったんだよ。


でも、当時そんなに駐在できた人でここに住み着いた人はいなかったと思うよ。

#33

ガーデナの明治マーケットのランチ弁当が美味くて安くてジェネラスで、
スチロールのパックの蓋が閉まらないくらいのてんこ盛りだった。
今のスーパーの特に名を秘す◯◯◯なんかのバカ高くてケチ臭くて
がめつい弁当なんかと比べると夢のようだ。

#32

俺も75年にシスコだった。
その年だったか翌年だったか雪が積もったよな。

#31

観光ビザできて渡米時期や該当するものやたどった道のりなど違いますが、私の妻は71年当時に学生ビザでケンブリアに通っておりました。
当時の私はボーデンハウスに住みガーデナーのヘルパーをしてましたが新発売されたばかりのダットサンのピックアップ(1600ドルくらいだったかな?)を購入して独立したばかりでした。
最低賃金が1ドル60セントの時代に月収が楽に1000ドル以上もありそれからすぐにプロポーズOK結婚しました。
妻は子育てを終えて10年以上まえに癌で死にました。

#30

405と101の交差しているところにあるホテルはHiltonの前はRadissonじゃなかったですか?


>でも、当時そんなに駐在できた人でここに住み着いた人はいなかったと思うよ。

添削; でも、当時駐在できた人でここに住み着いた人は「そんなに」いなかったと思うよ。

#29

ボーデングハウス。日系移民歴史の名残でしようか。戦後の移民が取りあえず、アパートが決まるまでの仮短期宿泊所、渡り鳥農業作業の人たちが泊まる宿そして若い旅行者や新参者が泊まる相互信頼で成り立っている有り難い便利な施設でした。そこにはそれぞれの歴史を生き抜いた日系人と個性が強すぎる日本人の若人がいました。多くの若い人はガーデナーのヘルパーのアルバイトしていました。今はガーデナーの仕事はラテノです。今思うと日系ガーデナーの方々は偉い。真面目に努力してシングルの家を買い、子供を大学まで行かせた。今日ではそんな事を出来るのはが簡単ではない。そして日系の信用を高めて頂き、その後、日本人による信用と言うブランドでビジネスを容易にしてくれた。尊敬します。ボーデングハウスには時々白人のお姉さんが Do you want see me?と声を掛けながらお部屋を訪れでおられました。そのお姉さんにお世話になった人も居られると思います。今思うとなぜ、そのお姉さんはDOWNTOWN HILTONやMAYFLOWER ホテルをマーケットにしなっかたのかな?もっとお金が転がっているのに。

LABREA劇場。見ました、見ましたあの寅さんを。お目当てのマドンナに近ずくシーンはハラハラ、ドキドキ コッパ恥ずかし。マドンナ役は日本を代表する すたあー明星 雲上人。あの大原麗子さんがSUNTRYのCMに出ましたが、あの頃大女優さんはCMにも出ないしバライテー番組も出ないので大衆化されていませんでした。寅次郎先生から人生哲学を教えて頂きました。人間生きていれば良いことが有ると仰せられました。

駐在員。あの時代SONYにつずけの号令で来られたのでしようか?花のエリート選ばれた日本経済と会社を任された偉い人。東京羽田国際空港で会社の人家族から歓呼の声と万歳三唱で送られた出世コースの高給取り。数年駐在しただけで日本で家が買えると聞いた覚えがあります。あの時代大学を出て大会社に就職するのが理想で幸福になる生き方。羨ましく思いました。勿論表面だけの想像ですが、内面では本社からマーケットを開拓してこいとかデーラーを各州に作れとか悲壮な重責が有ったと思います。帰国命令がでても終身雇用会社に戻らす、アメリカに残るだけの魅力があったのでしようか?人生の大決断だと想像します。

#34
  • エドッコ3
  • 2013/09/02 (Mon) 21:44
  • 報告

駐在員ビザ E1 の場合、どの会社もその会社の規定で日本へ帰ってからでないと
退職できないので、日本へ戻ってからの永住権申請は難しく、永住のために再度
アメリカに戻って来た方は非常に少ないと思います。

#36
  • chichi1234
  • 2013/09/02 (Mon) 23:01
  • 報告

参加記載ありがとう。

#27&28&30さん
1970年代の駐在した方がどれ程GCを得て、USA生活を選ばれたか?は分かりませんが、確かに駐在員待遇と現地採用では天と地の差があり、一時的には究極の選択ではあったとも思われます。 多くの方がその転機をチャンスとしたケースも知っています。
他には単身帰国で家族をUSAに残されて苦渋の決断されたかたもありました。
どちらが良かったか?は本人しか判らない?

ps; Howard Johnson ー>Hilton->Radisson(今は又異なるホテル名か?)

#29さん
ボーディングハウスの秘話は諸先輩から良く聞いた話でしたが、、、、実は私個人はFellowship houseに2週間分の宿泊費をDepositしましたが、雑居の部屋には『牢主のような』不機嫌そうな方から拒絶するように魅入られて?、怖くなり翌日NewYorkHotelへ引っ越したのである。
YMCA Hollywoodとあわせて初期の無駄な出費と苦い思い出です。―:)

私は海外のサラリーマン戦士の数々の体験話は後日その悲哀と傲慢さは知りましたが、
当初は駐在員組との接点は全くなかった。

#31さん
71年アルゼンチナ丸の乗船者からも多くがガ―デナさんになった方もあり、しっかりアメリカに根をおろして成功者になられた方もしってます。(今ではメキシコ系へ変わっているようですが、、、、)
早くに奥様を亡くされたとか、ご愁傷さまです。

#33さん
GardenaのMeijiマーケット(今のマルカイ)は何年に建設されたのですかね?
71-72年には訪れた記憶はありませんが、、、、

食べ物だけでなく、時間が過ぎる(歴史を重ねると)とノスタルジーからすべてが美しく変化するようですね。 私の思い出もその当時のことは鮮明に美化されています。

#34さん
確かに日本帰国後、仕切り直しで再入国をして住み着く人は少ないでしょうね。
最近気付くのが退職し、老後にLAを選ばれる方も多いようで、マーケットにShoppingされている老夫婦(一見してすぐ分かる)は新規日本参入者(何代目かの新規日系人?)でしょう。

ps1; 今後も多方面からの参加者を期待してます。

#37
  • kuji
  • 2013/09/03 (Tue) 09:18
  • 報告

私の伯父は銀行員でしたが銀行をやめてまで永住する気にはなれなかったようです。
当時は待遇もよかったですし、後にインドネシアに駐在した時にはメイドが5~6人ほど付いたとか、大きなダンスホールが家にあったとか聞いたことがあります。

会社を辞めてしまえば同等の会社に再就職は難しいでしょう。
当時アメリカに駐在として来て永住権を取ってここに残った方々は言葉も含めいろいろと苦労をされたと思いますよ。

#38
  • ムーチョロコモコ
  • 2013/09/03 (Tue) 11:52
  • 報告

#1 名前:chichi1234さん
>大阪三井商船

#7 名前:ぶらじる丸さん
>三井商船

「商船三井」のことですね。
すみません。文字の並び方に違和感を覚えたもので。


#29 名前:ぶらじる丸さん
>LABREA劇場。見ました、見ましたあの寅さんを。

ラブレアは「東宝」系です。
http://home.k00.itscom.net/kowdow/koudous_essay/images/hw001s.gif
「寅さん」(松竹)は、Crenshawの「国際劇場」ですね。

#39
  • chichi1234
  • 2013/09/03 (Tue) 13:28
  • 報告

先輩の方からメールいただいたきました。。。。

1965年にロスに来まして、当時ケンブリヤに通っていました。
なんか大昔ですけど、懐かしいですね。
校長先生、担任の先生、生徒も2人くらいは、憶えています。
何かありましたら、連絡ください。

特に、70年代だけとは限っておりません。
60年、80年代からの方々からとも広く交流したいと願っていますので、遠慮なく参加ください。 忘年会と親睦会でのお会いできることを今から期待してます。

#37さん
この前の仕事の関係でほぼ日系銀行とも取引があり、頻繁な合併、撤退等で移動される方も多くありましたが、、、半数以上の方がLAの生活を気に入っておったようで、泣く泣く帰国された方がありましたね。
しかし、宮使いでは転勤命令は無視できないのが現実でしょうね。

JBAメンバーの企業駐在員は概して諸待遇は良く、日本帰国後の生活に戻るのには相当苦労されたようですが、、、、、

#38
助言ありがとう。
再三の名称の変化でしたが、今はMOLに名前変更になりましたが、71年の船は大阪三井商船でした。
(親友に三井駐在員が居たので間違いはありません)

5者協定は当時LAにもあり、その通りでしたね。
その後、同船した方の中でSunVideoを立ち上げて貸しビデオビジネスで成功された方は確か『木村さん』でしたね。 今何処?

ps;そして後日、そのRental videoを全米の日本人へとFaxサービスを開始したハシリは私でした。 (当時はメモリー機能もなくFax#情報も今ほどなくて、一軒ごとFaxして夜を明かしたのは良い思い出です)

#40
  • chichi1234
  • 2013/09/03 (Tue) 13:38
  • 報告

追伸;
Veta vs VHS戦争はいつでしたかね?

Hollywoodのポルノショップでも確かそのテのビデオはなく、ビニ本(懐かしいでしょう)で小便臭くて怪しげな小劇場でのポルノ鑑賞はまた衝撃的でした。。。。:-)

ps;日本でグループサウンズ全盛期にそのPlayを録音したのも確かオープンリール式の録音機でした。。。我々のバンド名はバイオレッツでUnchain my heartがオープニングナンバーでした。。。。 この掲示板は日本(岐阜方面)の方は見ないのでしょうかね?

#41
  • kuji
  • 2013/09/03 (Tue) 22:03
  • 報告

>日本帰国後の生活に戻るのには相当苦労されたようですが、、、、、


あの時代の駐在は家柄、学歴が重要で日本に帰ってもそう苦労はなかったんじゃないでしょうか。
一緒に働いていた同僚は元殿様の家系とか親戚が外交官だったりとか聞きました。

しかし別の人から話を聞くと高校中退で運送会社の事業所立ち上げのためにアメリカに駐在してたとか。

今も昔も会社によっていろいろですかね。

#42
  • chichi1234
  • 2013/09/04 (Wed) 07:40
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又、71年春の回想です。

この年の1月にロス大地震があり、特に北部の方がダメージが大であったようで、Northridge近くのFWYが倒壊している箇所もありました。 その地震は強烈だったようです。

その春にアルゼンチナ丸で渡航した訳ですが、確かその航海が最後の移民航海であったと聞きましたが、実際は次のブラジル丸だったんですね。(同型の船体であったようです)

その乗船客の中には色々な方々がおり、『移民花嫁』『農業移民』『ちょっとお金持ちそうな外人客』そして『我々のようなギラギラした若者?』の混合客質でしたね。。。。

当時はビザが必要でたしかBビザだったと思うが、ハワイで6カ月の滞在ビザを得たのである。(そのビザの有効期限が5年であったのだが、この件では後日談があり、次のアメリカ入国がVancouver経由のSeattleであった。その話は又の機会に、、、)

何故船旅を選んだのか?

実は親友と世界旅行計画していたのだが、その友が家族の大反対でとん挫してしまい、一人での出発になったこと。
ウジウジと出発日を延ばしに延ばしたが、度重なる送別会とその餞別から、、、やむなく押し出されたのが事実であった。

いきなり飛行機でひとっ飛びでは味ないことと、その航空料金と同額近くであったことでアルゼンチナ丸を選んだのであった。

神戸港での送別テープ儀式は格別で、その時は涙涙の絵になるシーンであったのである。:-)

#43
  • 無関係
  • 2013/09/04 (Wed) 08:15
  • 報告

ノースリッジ地震(ノースリッジじしん、Northridge earthquake)は、1994年1月17日午前4時30分55秒(太平洋標準時)、アメリカ合衆国カリフォルニア州ロサンゼルス市ノースリッジ地方で発生した地震である。ロサンゼルス地震とも呼ばれる。

#44
  • chichi1234
  • 2013/09/04 (Wed) 08:51
  • 報告

失礼、LA地震の名称情報から参考:

この地震はカリフォルニアで起きた、甚大な被害をもたらした地震の中では、3つ目にあたる。1つ目は23年前の1971年に発生した、サンフェルナンド(シルマー)地震(Mw 6.6)である。

#45
  • chichi1234
  • 2013/09/04 (Wed) 09:01
  • 報告

追伸(地震について)

個人的に体験した地震の中ではニカラグア地震1972年クリスマス前の真っただ中におり、その戦場のような様相は凄まじくてヒッピー旅行開始時でのショッキングな幕開けではあったのだが、、、、この話も後日乞うご期待。:-)

参考: http://library.thinkquest.org/17749/jearthquake.html

#46

>#1さん Cambria(? ケンブリアAdjust school)

もしかしてFigueroa St.&Sunset Blvd. の角にある?(あった?)Evans Community Adult Schoolのことですか?1980年代にVisaクラスとレジデントクラス(High school diplomaのクレジットをくれるクラス)に通っていたことがありました。確かCambriaとも言っていたような。お話を伺い懐かしく思いました。

#47
  • chichi1234
  • 2013/09/04 (Wed) 09:33
  • 報告

#46さん

Evansでなくて、旧Cambria schoolはHabor FWYの西側に7th?9thSt.,にありました。

当時は今とことなりMexicanだけでなく世界中からの”新移民?”の初期英会話学習のメッカでしたね。 結構ヨーロッパ、中東方面からの美女がいた:-)

#48

>#47さん

Cambria schoolとは、ダウンタウンのほぼ中心に、あった学校なんですね。失礼しました。私がEvansに行っていた80年代も、アメリカで一旗あげようと外国人が一生懸命英語を習ってました。
話は変わりますが、ダウンタウンにEvangelineという寮?宿泊施設?があったのをご存知の方、いらっしゃいますか?友達が住んでいたので何回か行ったことがあります。20年くらい前まであったと思いますが。

#49
  • chichi1234
  • 2013/09/04 (Wed) 16:51
  • 報告

#48さん

EvangelineとはたぶんEvergreenの事と思われます。

Evergreenは地名でそこにあったボーディングハウスが#1でかいたFellowship Houseです。
最近近くに行く機会があったので、訪問したところ、あのお化け屋敷のような外観がきれいにペイントされていましたが、原型は留めていました。 なお、この場所は墓場が隣接していてEvergreen墓地と呼ばれていたのか?知れませんね。

前の文中で居住者に失礼な発言があったことをお詫びいたします。(*!*)

#50
  • chichi1234
  • 2013/09/04 (Wed) 17:27
  • 報告

余談です。。。

過去に自分史を『Myspace.com』にブログ連載していたんですが、いつの間にかそのサービス終了して一挙にその膨大な掲載記事が無くなってしまいました。 とても残念です。
ここでの始まりと同様に1971年神戸出発からの放浪記を延々と日記形式で書きとめてはいたんです。
そこからは不通であった多くの知人とも巡る会えたんですがね。

初期のMyspaceはFacebookと良い勝負でしたが、已む無く敗退したんでしょう。 *!*誰かITに詳しい方で私のMyspaceを再現出来る方おれば、Helpです。:-)

BrazilのRio出港前日まで書きなぐっていました。
太平洋に続き、大西洋縦断も船旅でした。 この時はイタリア豪華船でアルゼンチナ丸とは雲仙の差がありましたね。(しかし船旅中には歴然としたクラス分けがされ、貧富の差を強く感じました。^^)

#51
  • ムーチョロコモコ
  • 2013/09/04 (Wed) 18:07
  • 報告



>>>アルゼンチナ丸とは「雲仙の差」がありましたね

もしかしたら、「雲泥の差」?

#52
  • ムーチョロコモコ
  • 2013/09/04 (Wed) 18:10
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#48 名前:昭和の時代
>>ダウンタウンにEvangelineという寮?宿泊施設?があった

「女子オンリー」のところですね。
http://www.flickr.com/photos/zilf/101034567/

#53
  • chichi1234
  • 2013/09/05 (Thu) 07:04
  • 報告

#41, 52 & 48

FollowUpありがとう。^^) 知らないことも多くありますけれど、、、

勘違いはこのように生まれるんですね?!#

Evangelineはまったく知りませんでしたが、大変失礼いたします。

しかし、このような男子禁断のような女の館があるのであれば、是非とも覗いてみたいと野次馬根性が>>>>です。<<<

#54
  • chichi1234
  • 2013/09/05 (Thu) 08:53
  • 報告

ある勘違い、、、余談^^)

スクールボーイの家族にはとっても親切にされ、色々思い出す事件も多々ありましたが、その中でも傑作な事件は、

毎朝Vun NuysのHigh schoolまでは送迎して貰ったのですが、その際に紹介するのに『ミストレス』を連発して、先生(女性)が赤面していたのが不思議ではあったのですが、、、
後日、その言葉の意味が『妾』の事であったことを知ったんですね。
Japanese Englishを安易に使用した悪例ですが、後で皆が大笑いしたのも良い思い出です。。。

若さで大事にはなりませんでしたけれど、、、
常に慎重になるべきで、不確かな知識は要注意ですね。:-)

#55

>#49さん

#52さんが教えてくださったところです。

>#52さん

そこです!よく探してくださいました。私も場所が定かではなかったのですが、6thだったんですね。ダウンタウンのフリーウェイの近く?で、坂を上って行ったところだったと記憶しています。リンクをありがとうございます。住んでいたのは女子の友達でした。(1981〜1987年頃)懐かしいです。私は、Figueroa Wayと23rdにあるStella Maris Residenceという女子寮に住んでいました。建物は、ほぼそのままですが、現在は学校らしい?です。ついでと言ってはなんですが、Stella Maris Residenceをご存知の方いらっしゃいますか。
トピ主さん、この場をお借りして恐縮です。

#56
  • chichi1234
  • 2013/09/05 (Thu) 11:57
  • 報告

#55

女性との関わりは時代を問わず大賛成です。^^)

Stella Maris Residenceを利用された方の参加、参入?多方面からの書き込みください。

ウェブからの情報では現状は下記の通りです。:-)

http://www.yellowpages.com/los-angeles-ca/stella-maris

#57
  • ムーチョロコモコ
  • 2013/09/05 (Thu) 13:17
  • 報告

#55名前:昭和の時代さん
#56名前:chichi1234さん

これですね。
http://www.loopnet.com/Listing/15017774/2303-S-Figueroa-St-Los-Angeles-CA/
Figueroa Wayではなく、Streetですね?


#54名前:chichi1234さん
>>>Vun Nuys

Van Nuysでしょ?


#39名前:chichi1234さん
>>>71年の船は大阪三井商船でした。
(親友に三井駐在員が居たので間違いはありません)

もともと、住友系の「大阪商船」と、三井系の「三井船舶」が合併してできた
「大阪商船三井船舶」(現在は略して「商船三井」であって、進化の過程で
「大阪三井商船」という名称は存在しておりません。
(親友に住友駐在員が居たので間違いはありません)

それからたびたび登場する「アルゼンチナ丸」という表現は誤りで、正しくは「あるぜんちな丸」。
http://www.ms-plus.com/34860

#58
  • chichi1234
  • 2013/09/05 (Thu) 13:47
  • 報告

#57
度重なるEdit有難うございました。:-)

#59
  • chichi1234
  • 2013/09/05 (Thu) 13:58
  • 報告

71年初め、ニューヨークHotelには71年春に2週間ほど滞在しましたけれど、先日LittleTokyo訪問した時の印象は豪華に街並みは豹変していたけれど、日本的な雰囲気とかおりは無くなってました。 なんだか?新大久保のような感じか?

そうそう、あのころ時間を持て余したものでUnionStation脇にあったDennys restaurantでコーヒー一杯で数時間も愚痴、夢を語り合った友(?)達は今何処??

#61
  • chichi1234
  • 2013/09/05 (Thu) 14:27
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メールいただき下記のウィキペヂアリンク(1971年)のリンクを頂戴しましたので、Upします。(ありがとう)

たくさんのニュースが列記されてましたが、その中で個人的に目を引いたのが、、、

GSのタイガース最後の武道館サヨナラ公演
(先日リユニオンショーは昔の自分とダブりました。)
ニクソンショック、円変動相場制移行

=>http://ja.wikipedia.org/wiki/1971%E5%B9%B4

#62

#57 ムーチョさんとchichi1234さんの商船についてのやり取りが面白くて、笑っちゃいました。
親友の駐在員が、それぞれ三井と住友で。
私の知人、以前同じ職場に務めていて、その方は丸紅の駐在員(N.Y)をリタイヤしたのちに、こちらに家を購入して住んでいます。
娘さん達がアメリカで結婚しているせいもあると思います。
その方と同じ職場だったのは、彼のリタイヤ後の再就職先でした。
カープールして、色々お話出来て楽しかったです。今は、そこを辞めておられますが、日本に帰ったかもしれません。私達の住んている所は退屈な街なので(日本人は居ない)
もしかしたら、これを見てるかな?どうしてらっしゃいますか?
所で、我が家の犬の死で嘆き悲しんでいますが、こういう書き込み欄を見ていると気分転換になり、精神的に助かります。
今日は、たまたま予約していたルーティンCheckUpに行ったのですが、
先生に犬のことを考えると、辛くなって息が苦しくなるとこぼしたら、anxietyの薬をオーダーしてくれました。
パニック症状に効くそうです。飲もうかなと思って、この欄を見ていて、おかしくて気分転換出来たので飲むの辞めました。こういう薬は飲んだ事無いのでちょっと不安だし。夜はワインを飲む事にします。それで、効果なければ、薬にしようっと。

#63
  • chichi1234
  • 2013/09/05 (Thu) 18:07
  • 報告

#62さん

投函ありがとう。

読んでいただき、面白く笑ってしまったとか、Happyな気持ちになったのであれば幸せです。

私を含め72年代USA上陸組は結構な年齢を重ねて、たぶん大半がリタイアまじかか? このビビナビ常連とは異なる年代が多いと思います。

日本、アメリカの友人知人も話題はその老後、病気、死後の世界等が中心ですが、ここに年齢に逆らって1971年に帰ろうと考えている男がいます。 (勿論、バーチャル世界ですけれどね)

自分では20、30,40,50年代にそれぞれ満足出来る人生ですが、確かに歳を重ねるにつけ、何が自分にとって大切なのかを見つけ出すことは困難になってきますね。

競馬で云えば人生の第四コーナーに差し掛かったで最後のダッシュタイミングですから、どんな人生の結果であっても悔いないものにしたいと念じています。

今後も、暇な時にはご訪問くださいませ。 :-)

ps;私の思い込みで、たぶん住友の方?が正解なんでしょう。 笑いを誘うことができたのはヒョウタンから何とか?です。 ^^)

#64
  • budgirl
  • 2013/09/06 (Fri) 04:58
  • 報告

↑まだまだパパ元気だよー♪人生謳歌しているから若いっ。
ブイブイ言わせているお話(進行形)を楽しみにしています^^

#65
  • chichi1234
  • 2013/09/06 (Fri) 07:34
  • 報告

セビア色の世界とか? 古い思い出は何となく霞んだようなものでしょうか? 私の場合は鮮明なフルカラーのイメージが広がってきます。
その場所がLAであるかも知れませんが、、、イメージとあわせて音楽も過去の世界に引き入れてくれます。
最近はあらゆるメディアがあり、何不自由なく選んだものが手に入りますよね。

たとえば、

http://www.pandora.com/station/play/1596946567914542220

これらからその当時の面影がよみがえってきます。

先日もサンフェルナンドバレーのVenture Bl., VanNuys Bl.,をDriveしましたけれど、街並みも一変してモダンになっていました。
前はオレンジ、レモン畑?が広がっていたような気がしましたが、、、

ところで,Van Nuys Bl.,にあったPalaminoClub(パラミノ)に行ったことがあったんですが、ベンチャーズがPlayしていたのにはビックリしました。
その昔はビートルズと共に私のヒーロー達でした。:-)

#66

>#56さん

StellaMaris Residenceへの応援ありがとうございます。リンクもありがとうございます。

>#57さん

リンクをありがとうございます。そうです!ここです。この建物からFigueroa Streetは見える場所にあります。リンクしていただいたストリート番号も同じですが、私が住んでいた当時(1980年代)にはS. Figueroa Wayと住所に書いていましたが、今は変わったのかもしれませんね。110FWY(South)をAdamsで降りると23rd.に出ますが、建物はその出口の目の前(Figureoa Way)にあります。23rdと交差する道がFigueroa Wayで、そのまま直進するとFigueroa Street南方面、左手斜めに合流します。Figueroa WayにはStella Marisと隣の学校の校庭?で、他に建物が無かったと記憶しています。
https://www.google.com/maps/preview#!q=Figueroa+Way%2C+Los+Angeles%2C+CA+90007&data=!1m4!1m3!1d6355!2d-118.2748967!3d34.033233!4m11!1m10!4m8!1m3!1d423285!2d-118.4117325!3d34.020479!3m2!1i1024!2i768!4f13.1!17b1

#68
  • ベイビーブーマー
  • 2013/09/06 (Fri) 16:23
  • 報告
  • 消去

同じ時期の話題にはなつかしいものがあります。

フィゲロア通りにはプロレスのメッカ・オリンピックオーデェトリアムがありました。 ジャイアント馬場とアントニオ猪木全盛期であったのではないでしょうか?
そのときに見たプロレスはショーのようで詰らなかったでしたが、日本では本物のプロレスを見てないのですが、テレビの格闘は本物のようで興奮したものでした。

#67

ムーチョさんの突っ込み何時も厳しいなw
ぶふっ!

#69
  • chichi1234
  • 2013/09/06 (Fri) 18:56
  • 報告

スポーツと言えば、やはりBaseballでしょう。

最初に家族とその悪童友達と2台のStation Wagonに乗って訪れたのがドジャースタジアムでした。 その美しさには唖然としたものです。(私の地元の名古屋球場(ドームの前)とは天と地の差でしたね)
そして、その観衆の騒ぎ方は度肝を抜かれました。
同行した悪童は全員グローブを持参し、ファオルボールを取り合う姿なとってもアメリカ的で益々USAの好きな気持ちもましましたね。

#70
  • chichi1234
  • 2013/09/06 (Fri) 19:04
  • 報告

そして、同時期にはBasketball(NBA)もPlayしており、LA Lakersにも夢中になったものです。

(Angelsはまだなかったのかな??)

春には野球、夏の終わりにはフットボール(Ramsでしたね)そして冬にはホッケーとバスケが同時にPlayしており、LAはスポーツ天国です。

最近はGolfも楽しくなく、スポーツにも興味をなくしています。

#71

#22アメリカ人のアジア人日本女性の美的感覚。私はイソップ寓話の酸ブドウの負け惜しみのオオカミと同じでアメリカ人が日本女性に興味をもつのかと不思議に思っていました。チノ(アジア人の総称)が珍しいのかフレンドリーなコロンビア女性の様に目が大きくで、胸の脂肪があり過ぎるのが美人と思っていました。今その脂肪を見ても わずらわしだけ。 私のボスは 白人地域のオレンジ郡育ちの白人でUSC出のハンサムフィリピン人と結婚そして離婚。ある日雑談で なぜモテモテのYOUは独自文字を持たない仏教国でなく文化歴史のない背景の彼女と結婚したのかと意地悪な質問をしました。彼の返答は、廻りは白人ばかりで黒い髪と瞳がエキゾチックに感じたそうです。私の狭い狭い地域では
日本が何処ににあり、首都名も知らない方から一部のアジア人にとって 日本女性ブランドは健在です 。1970年代。日本そして日本女性を一層神秘的に高めてくれたのがドラテレビドラマSHOGUN 女優島田洋子さんではないでしょうか?
その後ハリウッド映画SAYURI 。 私は映画に出てくる好きな女優さんが出てくるので肯定的に見ましたがダメでした。1970年代日本国内で夢希望を実現化できるのは困難社会でした。スキルが必要でない受付、お茶くみ雑用係その他単純労働、そんな日本社会の現実から意欲ある女性が渡米したと思います。 勿論、青春の一時期の人生経験でこられた人もいます。ちなみ中国では男女平等 、バス運転手
から人民解放軍の女兵。抗日戦争ドラマ、援朝鮮ドラマの影響で女兵は憧れらしかった。ご承知の通り中国主席婦人は人民解放軍所属。こちらで1970年代知り合った意欲ある女性が努力で成功した人が沢山います。住み込みお手伝いしながらバスで通学した。食費節約のためインスタントラーメンで過ごして今では見るのも嫌という成功組。男性以上に困難だったと想像します。偉い。























#72
  • chichi1234
  • 2013/09/08 (Sun) 09:21
  • 報告

女性論について脱線です。^

根っからのサユリストで『吉永小百合』が理想でしたが、、、、

その後、シルビーバルタンで『ブルーアイ』『金髪』を求めて日本脱出が私の本音でした。:-)

しかし、ロスでは意外にその2点を満たしている女性は少数であって映画の世界のみと知りました。

金髪、ブルーアイを求めてUCLAに毎日通ったんですが、アメリカ女性にはまったく歯が立たずに、その圧倒的なボリュームに唖然と立ち尽くしたのでした。

その後の世界放浪経験から知ったのは、やはり見かけだけでなく、色々な要素が絡み合っての男女関係成立とも納得しました。

国毎に評価することは公平ではありませんけれど、私的にはフィンランドの女性が一番ピッタリしたような記憶です。
(日露戦争の先輩方の功績から、ファインランドをロシアから一時解放したとの歴史から云々でファインランド人の年配者が極めて好意的でその女性は私も情熱的でした。。。。。)

#73
  • 無関係
  • 2013/09/08 (Sun) 10:59
  • 報告

昔の日本人男性は金髪ブルーアイズに弱かったよねえ。
駐在でも、アメリカ人女には何にも言えず、こっちが
とばっちりくらったもんです。

#74
  • kuji
  • 2013/09/08 (Sun) 20:59
  • 報告

白人に弱い。
敗戦国の運命か・・・

伯父さんが「話す前からすでに身長で負けてるんだよな」って笑ってた。

#75
  • chichi1234
  • 2013/09/08 (Sun) 21:21
  • 報告

英会話と私、、、、

岐阜のYanagaseにあった会話塾に1年ほど通い、その塾生と英会話を練習する為に神戸までいったのが懐かしい。(実際はその女性塾生との旅が一番の楽しみではあったのだが、)

日米で経験してからの答えはやはり耳がよくなければならない。
後で知ったことではあるがカラオケが上手いのは英会話も確かに上達が早かったようだ。
日本のタレントでは『美空ひばり』の英語はビカ一とのこと。あの歌唱力は誰も真似ができなかったんでしょうね。
今はHitechを駆使してどんな音でも作りだせるので、カラオケに行っても結構上手いが生はたぶんそんなでもない。。。

LA上陸後も極力日本社会と遮断しようとはしたが、、、こっそりと週末にLittleTokyoへ来て『リンダリー劇場』の健さん、寅さんでは発達しようがな方ことを後悔する。
それでも数少ない日本人の友人からはその上達ぶりは褒められたのではあったのですけれど、レベルの低い仲間内でのことであった。。。。:-)

それでも糞度胸だけは自他共に認める行動力と欧米人に対する憧れ(女性のみ)から結構ブロークンな英語ではあるが一方的に喋りまくったことを思い出す。

余談ではあるが、その後、英国Cambridgeに1年ほど居た時は、私の英語が変なアメリカ訛であったことから随分、その地では馬鹿にされたのである。

最後に後輩にアドバイス、
耳と口の神経を最大限生かしきることがそのCommunication能力をレベルアップする早道ではある。。

#76
  • chichi1234
  • 2013/09/09 (Mon) 13:22
  • 報告

キャンブリアSchoolで親しくなったのが、前にも書いた2名で

Osamu(同志社を1年休学して留学)がPasadenaの弁護士豪邸でスクールボーイ。

Chozo(山形、秋田?からで一番年長者)はGriffith Parkのお金持ち老人介護をしながらのホームステーであった。

両名とも$2-300ほど給料(?)を貰っていたようではあったが、私は無給。。。。(ある程度はあるのか?期待していたのではあるが、、、しかし、HouseKeeping等は何もする必要もなく、週末夜のBabySitting(小学と幼稚園児)のみで、Partyも頻繁にあり、自由に参加させていただいたことで無給については全く不満はなかったのである。

その後、人生色々ではあったがお金に関心が無い時期が思い出も多く、又有益な時間であったと振り返ってはいる。

School, HouseBoyとメイド的なものもあったようではあるが、それらの話を聞くと当時でも結構不真面目なアメリカ人、家庭もあり、虐待とまでは云わぬが、精神的に落ち込んだものもあったのである。

しかし、今の若者が利用しているHomeStayと比べれば、良い時代であったと思う。

ps;Chozo, Osamuへ
日本でこの掲示板見たら、連絡くれ。^^)

#77
  • chichi1234
  • 2013/09/10 (Tue) 09:00
  • 報告

脇道へそれます。 > jj <

NHKのあまちゃんはいいですね。。。

トルコ、カッパドキアで日本人女子学生が襲われ、一人がなくなりましたが、過去に私も訪れたことがあった土地で驚きました。

確かにトルコはアジアとヨーロッパが交わったようなイスラム色が色濃い国です。 当時も私にとっても異様な雰囲気を醸し出していたように記憶しています。

又、ヨーロッパ中に男女共若者が多く旅行、留学、放浪がおり、多分あの北朝鮮へ拉致された人もあったのでは??
(実際に赤軍派のような連中も多くいたはずです)

それでも懐かしい土地、時代でした。 JJJです。^^)

#78
  • chichi1234
  • 2013/09/10 (Tue) 15:30
  • 報告

又、じぇじぇじぇです。

以前からMyspaceのブログ復活方法を模索していましたが、やっと重い腰を上げたようです。 Upされ次第にこの掲示板もそちらに移転することになります。 それまで4649^^)

尚、ブログのUploadには時間がかかると予想されますが、Photoは早々にUpされました。

過去の写真集: https://myspace.com/wiggyueda/photos


以下がMyspaceからのメールでした。参考になれば幸いです。

Dear Myspace User,

We wanted to let you know about our Classic Blog Export Request tool. You can use it to start the process of downloading your content. Just sign in to your existing account or create a new account. Then submit a request to receive your blogs. They’ll be sent to you in the near future.

Begin the process now.

We know your content is important to you. We listened to your feedback and understand it’s a big inconvenience to be separated from it. So we wanted to ensure all your blogs transfer as safely and accurately as possible.

We also want you to know Myspace will have a new blogging platform in the future. We’re working hard to create the best possible tool so you can share your blogs in newer, better, more powerful ways. We appreciate your patience and hope you'll stick with us while we build it.

If you have any questions about your blogs, your content, or new changes to Myspace, we can help.

In the meantime, check out our new feature My Radio, which builds a unique station for you based on your connecting & listening habits. You can even use My Radio on the go within our mobile app. Download the app here.


Thank you,
The Myspace Team

#79

懐かしい話題満載ですね~!

僕は75年にエバンス・アダルト・スクールのビザで紐育から羅府に到着しました。

その後リトル東京のベン・K・高橋さんにお願いをしてグリーン・カードの申請をしましたが、78年に日本で用事が出来て一旦帰国をしたので申請は不意になりました。

当時の小東京は大正時代の日本みたいな雰囲気で、味があって大好きでした。ハーバー・フリーウェイが11号で、ガーディナに明治屋があった頃です:)

クラブ赤坂とかクラブ蝶、あとハリウッド方面のサンタモニカとサードの交差点近くにあったクラブ・ラークとかにも良く通っていました:)

70年代の羅府はのんびりしていて、とても良い時代だったと思います。タイムマシーンがあったら戻りたいかも:)

#80
  • chichi1234
  • 2013/09/11 (Wed) 07:19
  • 報告

Re: リトル東京のベン・K・高橋さん?

奇遇ですね。”JJ" 他にも多くが御厄介になったか?私もBenKさんにGCを手配しました。 懐かしいコメントありがとう。

文中のナイトクラブが私も後日”御接待で利用した”?事もありました。

Back to the futureの映画のように自在にタイムスリップ出来れば良いのにね???JJJ *)

#81
  • ムーチョロコモコ
  • 2013/09/11 (Wed) 08:51
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#79名前:未成年さん

>>> ガーディナに明治屋があった頃です

「明治屋」という名の店があったのは、紐育郊外のHartsdale。
(現在、その場所は「ニジヤマーケット」になっている。)

Gardenaにあったのは、「明治マーケット」(現在の、Athletic Shoe Connectionの場所)、
そして、「ニュー明治マーケット」(現在の、マルカイパシフィックマーケットの場所)。


>>> サンタモニカとサードの交差点近くにあったクラブ・ラーク

「バーモント」とサードの交差点近くにあった「羅亜久」のこと?

#82
  • chichi1234
  • 2013/09/11 (Wed) 11:23
  • 報告

#81 度々のEditありがとう。

マタマタ、脱線ですが、最近の音楽には何故か馴染みませんが世代の断かいか?

日本出国前の思い出も懐かしいんですが、下記リンクの曲は当時の蘇らせ、また同時に自身の気持ちを表現していますね。

http://www.youtube.com/watch?v=UdSArPz3pio

さて、今後のYoutubeとiTune動向に興味あります。

それにしても71年では想像もできなかった世の中になったものです。。。。。:-)

#83
  • 未成年
  • 2013/09/12 (Thu) 03:14
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#81 名前:ムーチョロコモコさん、

Gardenaにあったのは、「明治マーケット」(現在の、Athletic Shoe Connectionの場所)、そして、「ニュー明治マーケット」(現在の、マルカイパシフィックマーケットの場所)。
----
そうでした!明治屋ではなくてニュー明治マーケットでした。教えてくれておおきにです!

>>> サンタモニカとサードの交差点近くにあったクラブ・ラーク

「バーモント」とサードの交差点近くにあった「羅亜久」のこと?
-----
はい、その通りで「羅亜久」の事でした。で、ムーチョロコモコさんが仰る通りで、サンタモニカとサードではなくてバーモントとサードの間違いでした!(サンタモニカとサードじゃ交わらないですね:)

38年前の事なのに、正確に直してくれてどうもありがとうございました@感謝しています!

#84
  • chichi1234
  • 2013/09/12 (Thu) 08:24
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私も同じように過去の記憶がある面では鮮明なんですが、名称等は限りなくぼやけて定かでないのは確かです。

老化現象がまずその脳細胞からと云われていますから、ここでその対策をお互い強化しましょうかね。。:-)

ps;ところであの頃、接待漬けでも結構楽しん時にお相手してくれたホステスの美女達(?)は今何処? (自称、学生が多かったですね。)

#85
  • chichi1234
  • 2013/09/12 (Thu) 20:01
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#22, #23

i405FwyでEncinoまで行く機会があり、懐かしのHoward Johnson Lodge(ここはIce creamで有名だった)が今は、

Mariotte courtyard hotel

に変わっていたが、建物は40年前のままだった。
しかし、その前のVentura Blvd.,は随分華やかには変貌していた。
巷ではこの辺が夜の街と変わりS girlsがタムロしていることで有名になっているとのこと。 前は田舎の町であったのが様変わりでしたね。 :-)

#86
  • 未成年
  • 2013/09/13 (Fri) 03:40
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chichi1234さん、こんばんわ!

ところであの頃、接待漬けでも結構楽しん時にお相手してくれたホステスの美女達(?)は今何処? (自称、学生が多かったですね。)
-----
確かに自称学生だらけでしたよね(笑)

76年に27才だった知り合いの自称学生のホステスさんが今64歳で日本に住んで孫もいるようなので、他のホステスさんたちも似たり寄ったりでみんな結構な歳だったりして?!そう云う僕も当時は未成年でしたが今は還暦の少し手前だから時が経つのは本当に早いですね。。

ところで小山ルミさんとかはお元気なんでしょうかね?

「私は泣いています」を歌っていたりりぃさんも今は帰国しているようですが、当時は羅府在住でしたよね?

日本語放送で「だいこんの花」をやっていた頃です:)

#87

#77.北半島の共和国に関して、1970年代日本人がヨーロッパで拉致された記事がありました。日本の媒体によると、大国の脅しに負けない外交術に長けた神秘的で元気もんの共和国は外貨稼ぎの手段として偽札生産流通、麻薬 武器輸出や肉体労働輸出等と有るそうです。唯一合法的と思われるのは、共和国の友好国に存在する国直営朝鮮レストラン。中国東北のシュンヨウ市内に朝鮮族が多い西搭地区にある数軒あるうちのひとつ朝鮮レストラン(朝鮮飯店)に噂の美女軍団を見たい好奇心で 拉致の言葉が頭意浮かぶ、私がここにくる事は誰も知らない、勇気を出し門前に立つ民族服の美女従業員(服務員)に断れる可能性があるので、尋ねました。一人様(テーブルは4人掛けになっているので気ずっかった。)で日本人だけどもオーケーか?と聞きました。日本を知らない、かかわった事のない案内係美女は中国語で。我々は日本鬼子(鬼、悪魔)の日本人は恨むけど老百姓(一般人)に対しては没関係(なんとも思わない)の様な意味のことを笑顔と一瞬キツイ目で答えました。どうぞどうぞと席に案内されました。中国水準からして豪華な内部には美女服務員(ウエイトレス)が約15人ぐらいました。日本でもアメリカでもニャトクラブとか入った経験ないので民族衣装の美女が一同に揃うと異様な別世界。4人掛けのテーブルに前もってマネージャーらしき店の人に同席してよいと伝えていたので3人の若い社会人中国男性と同席になりました。冗談とユーモアな中国人と私たちのテーブルを受け持った服務員や周りの服務員との会話のやり取りを観察した私の独断と偏見。あの美女軍は1.金日成大学卒。2.家族国の幹部と思想背景が良い。3健康で見てくれ美人(あの国にはダイエットとか整形の語彙もない自然美女。4.タレント(歌、踊りと楽器)5。派遣さきの言葉を話す学力、ここでは中国語。ここまで厳しい選考で選ばれた共和国の代表。6その中にスパイ訓練された人もおるか? ステージではプロ水準のエンターテイメント歌 踊り 楽器演奏。私たちテーブルの女性(担当はドラム)ステージの合間受け持ち客(同席中国人)との機知にとんだかわす雑談、お互い不可能と解かっていながらのおデイトの誘いを冗談とと笑顔で断る話術。テーブルのかたずけ、ビールをグラスに注ぐなどの洗練されたサービス。(中国人はビールは1ダースごと 食べ物はテーブルいっぱい最初からオーダーしているのでセールス目的ではない)そしてステージと往来する。お話も上手なプロ集団。ちなみにチップやおひねりの習慣がないので、おひねり目当てのサービスではない。サービス の語彙さえないあの国のエンターテイメントレストラン(適切な言葉がない)
体験は想像以外でした。怖いマネキン美女集団がマニュアルに従いサービスするレストランとおもっていました。皆様いろいろな体験がおありだと想像します。2011年の私の体験。神秘的地方、響きの良い国への旅への私の興味は衰えていません。






#88
  • chichi1234
  • 2013/09/13 (Fri) 12:48
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今日Apple shop(Manhattan Beach)へ行く機会があり、久しぶりに訪れました。

New iphone5の販売開始からか?Shopはごった返していました。(いつもの事か)

このAppleで感じることは、BeatlesのAppleとダブるイメージです。 Steve JobsもJohn Lennonのファンであったとか?
Shopに訪れにお客さんも何か街中のアメリカ人とは雰囲気が異なり、ベイビーブーマー(1st、2nd世代)であり、昔の世界へ迷いこんが様な雰囲気でしたね。

それにしてもアップルは凄いですね。 熱狂的なファンをしっかりと掴み取っています。 是非参考にしたいです。:-)

#90

#86

飛んでいた女性が多くいましたよね。

また、その頃は草食系の男子は少なくて、皆ギラギラしていました。

私の思い出は『Encinoの紅花』のラウンジでトワエモアが懐かしいです。

#87
多分私と同年輩か? 元気そうですね。 今でも現役で旅人とは?

明日2:00pmからGardena Hotelで藤井厳喜さんの公演がありますが、行く予定ですので、もし参加されれば?お会いしましょう。 (そのタイトルは戦後68年、日本の今を考える)です。

#91

懐かしい響きですね。私はAMRICAN president LINEでS.F.に
入港、一度かえりましたけど、在米40年近くになります。NEW YORK
HOTELにも確か御世話になった事あるような。船上で一緒だったひとが
なつかしいですね。再び会える機会があるなら、うれしいですね。
何かの集まりがあるのなら、是非ご連絡ねがいます。

#92
  • 無関係
  • 2013/09/13 (Fri) 16:45
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ぶらじる丸さん
とっても、おもしろいお話なんですけどなんせ
読みにくい。

#93
  • ムーチョロコモコ
  • 2013/09/13 (Fri) 19:09
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#87名前:ぶらじる丸さん

>>>中国東北のシュンヨウ市内に朝鮮族が多い西搭地区....

シュンヨウってどこだろうと思ったら、瀋陽(シンヨウ、シェンヤン)のことですね。
(かつての「奉天」。)
因みに、西搭ではなく、西塔。

暗号めいた文章を書かれるぶらじる丸さんは工作員の方ですか?

#94
  • chichi1234
  • 2013/09/13 (Fri) 20:26
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RafuShinpoと云う日系向けの新聞がありましたよね。
紙面の半分を英語でのものでしたが、最近は見かけませんが、、、無くなったのでしょうかね?

最初は力んでLAタイムスをカジリ読みましたが、いつの間にか日本が(日本語)が恋しくなって、随分お世話になったものでしたね。

アパート、車、職探し等でも結構役に立ったものでした。

今はネットで殆ど用を足していますが、あの頃のアナログ世界は決して嫌いではありません。

また、この掲載をはじめてから朝起きがけに夢を見ます。 殆ど覚えてはいないが、今朝は何故かRafushinpoのインクで手が真っ黒になり起こされた。。。。:-)

#95
  • ムーチョロコモコ
  • 2013/09/13 (Fri) 20:48
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>>RafuShinpoと云う日系向けの新聞がありましたよね。

Rafu Shimpo だったら今でもあります。

#96
  • 無関係
  • 2013/09/13 (Fri) 22:31
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ありますよ。
羅府新報

日系書店で1部45セントくらいで買えます。

#97
  • chichi1234
  • 2013/09/14 (Sat) 07:51
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#95 #96

FollowUpありがとう。

日米の大新聞社、メディアが経営危機に陥る中でも、その存在を続けていることは大変ですよね。

末長い発行を願っています。

永続は力なり!

私の71年以降の回想録も乞うご期待。:-)

#98

あえて言うまいと我慢しておりましたが、chichi1234さんも、ブラジル丸さんも、文章が痛々しい。
プロの様に書いて皆さんにお見せしたいのでしょうけど、そんなレベルじゃありません。
多いに投稿頑張って頂きたいので、ちょっと一言ですが、
文章を書くのが得手でないのであれば、いっその事もっとシンプルに地味に淡々と書くと、人に意外と伝わります。
お手本としては、江戸っ子さんの書き方です。
くせが無くシンプルで、さっと人の心に入っていきます。
詰まり、奇をてらおうとして、何か付け加えたりする事はないわけです。これは、うまくやらないと逆効果で、かえって場を白けさせるだけです。
きつい事言って、すみません。これからも、貴重なお話を皆さんに提供して頂きたくて、余計な一言と成りました。決して悪意ではありません

#99
  • chichi1234
  • 2013/09/14 (Sat) 12:47
  • 報告

#98

ご指摘ありがとう。

日本語をもう一度基礎を勉強して、投函するように致します。 :-)

#100
  • chichi1234
  • 2013/09/14 (Sat) 12:51
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追伸; 参考になるリンクですが、一読乞う。:-)


http://uesugitakashi.com/?p=7319

#101
  • エドッコ3
  • 2013/09/14 (Sat) 18:54
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#98 さん、

困っちゃうな~、そんなに褒められて~、、、

ただ単にムーチョ閻魔大王が怖いだけです。(^^; しかしムーチョさんの正確無比さは
どこから来るんですかねぇ。歩く生き字引と言うか。

101 Strings

#104
  • なにいってんの?
  • 2013/09/14 (Sat) 19:47
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#98

まるで、だだっこのようですね。厚顔無恥等言うか。
自分の読解力の無さを、人のせいにしてはいけません。
chichi1234さんも、ぶらじる丸さんも、書き方に個性があって面白い。
その書き方ゆえに、人の心に伝わることもあるんです。

それに、江戸っ子ではなく 【エドッコ3】、ブラジル丸 ではなく 【ぶらじる丸】ですよ。
人にもの申す時には、あなたこそ気をつけたらどうです?
基本的なことを間違えては言いたいことが伝わりません。
まったくもって失礼です。

#103

#98
あえて言うまいと我慢していてくれれば良かったのに。 読まない自由もあるでしょうが。

文には個性が表れます。 chichi1234さん、今のままで続けてください。

#102

#98さん。建設的なアドバイスありがとうございます。そのときの状況を思い浮かべながら書きましたので、感情が先行して上手く文章で表現できない未熟者だと自覚しております。
恥ずかしい。だども #98さんの指摘が嬉しい。感謝です。

#98さん。博識には敬服です。ご指摘の通り瀋陽市シンヨウshenyangです。中国空母に命名された遼寧省の省都です。西塔は何千万人単位だけど少数民族と呼ばれる朝鮮民族が多く住む地区でハングル文字が目につき、勿論朝鮮語会話だ聞こえてきます。道端ではどこの国地方のか分らない朝鮮音楽が流れています。そして食料用の生きた犬や皮をむかれた冷凍犬を売る問屋が集中しています。当然犬肉(狗肉)専門料理店が数多く有ります。急速に開発が進んでいるので、今は私が見た光景は一変してるかも?
工作員?私は技術を提供するサービス業をsouth
bayで営んでいます。

#105
  • 無関係
  • 2013/09/14 (Sat) 20:29
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ぶらじる丸さん、
もう少し、短く改行して頂けたら。。。。
端から端まで目いっぱい文章が続くのでちょっと
読みにくいんですよ。ごめんなさい。

#106
  • kuji
  • 2013/09/15 (Sun) 10:23
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別トピのエドッコ3さんの話じゃないけど
うちの伯父はNY駐在時代1950年代?1960年代?のキャでラックに乗り、結局最後は手放せず日本までもって帰りました(笑)
後ろに羽がついてるタイプ。
休みになるとよく磨いてましたよ。

伯父いわく
あの頃のアメリカの自動車産業は世界の中でも高い利益を出していて小さな国家の全収益を上回るほどだったとか。
銀行が目をつけるはずですよね。
まあその後は日本の車にやられて衰退していくわけですが・・・

#108
  • ムーチョロコモコ
  • 2013/09/15 (Sun) 13:50
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>>>「キャでラック」

「トイザらス」で買ったのかな?

#109
  • Reila 911
  • 2013/09/15 (Sun) 13:52
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読むな
書くな
見るな
ちなみに昔栄菊でさされた人の家族はどうしたのかな!!!

#110
  • chichi1234
  • 2013/09/15 (Sun) 14:11
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オリジナル投函者での思いは『1971年アメリカ上陸』への回想から、
どの様な方々から反応があるか?
又、ひょってしてそれぞれがどのような遍路を辿ったか? に興味があったからです。
思うまま『落書き』する程度の軽い気持ちで投函したのが原因で個々の気持ちを害した事をここ々にお詫び申し上げます。
日本のサイバー関連の専門家一部もTwitterはじめ色々なSNSの是非を問い、同時に撤退をする方もあるようですね。
確かに匿名であることから、感情の思うままに筆が荒れることも歪めない事実ですから、注意したいものです。

日本では今『アマちゃん』『半蔵』そして『2020年東京オリンピック』等でバブル時代の再現?を夢居ている日本人も多いようですね。
アマちゃんでは懐かしい昔のアイドルが再登場。
半蔵では自分が出来なかったことを胸のすくように発言行動してくれる。
そして極め付きは1964年の再来? 東京オリンピック。。。
等々、団塊世代の復活を夢見ている老人がLAでただ一人、ここに居る。:-)

#111
  • kuji
  • 2013/09/15 (Sun) 15:01
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#108

今度聞いてみましょう。

#112
  • chichi1234
  • 2013/09/15 (Sun) 18:21
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追憶。。。。Good musicといい女。

http://www.youtube.com/watch?v=96YQdiMV-Jc&list=RD0296YQdiMV-Jc

この曲はバンドで何十回とプレーし、& 憧れの女性達です。

(ちょっと古すぎるかな?)

#113

#105さん。読んで頂いて有難うございます。ご指摘の様にいたします。

#106 伯父さんとキャデラック。 1960年代。子供の頃。町中心から、わが田舎道にタクシーが通ると何処の家のあんちゃんが都会から里帰りしたのか興味を持って追いかけた。田舎唯一の店。お酒、食料、お菓子其の他生活用品を売っていた。今で言うコンビニ。そこに、憧れの東京の文化を中継する、テレビが来るそれは大騒ぎと大興奮。そんな時代にキャデラック。古い日本語に舶来品という言葉が有った、外国製品崇拝時代。大きいアメ車 しかも、あのキャデラックが家に鎮座。家を数軒買えるほどの高級車。少女時代の大スター、美空ひばりさんが通う学校に、あのキャデラックがお迎えに来ると、学校全体が大興奮だったと言う記事を週刊誌で読んだことがあります。日本に数台しかなっかのでは?

お勤め銀行頭取か、有り余るお金を持つ大資産家に見られたのでは、と想像します。整備券を配るほどの、見学者も多数おられたと思います。
しかし、その時代、日本で物 モノ は普及してなっかったけれど、アメリカ人の貧しい食生活。(#24に同感)より日本の食生活はよっかった。
例えば、のりの佃煮、秋刀魚、哺乳類の鯨肉、そして子供のころ魚釣り用のミミズに似たイカの塩辛、見た目気持ちわるかった。これらは、貧乏人が食べるものと思っていました。今では高級品。アメリカ人家庭に在る、TVデナー用の折りたたみテーブル。ダイニングルームには立派なテーブル。部屋の装飾品け? 体の大きいアメリカ人は、ランチサックを持参して出勤。薄茶色の紙袋の中には手作りのサンドイッチにリンゴかバナナ。今でも、この袋がマーケットにあるのかな?
アメリカ人家庭に招待された時、出てきたサラダに 生もやし。この生のもやしは日本の家庭で サラダの材料になるのかな? それと、聞いた話では、
アメリカ人は、 生卵は しろみ が鼻水に似ていて、 食べないそうですが、直訳すると恥ずかしいムチョロコモコさんどうなんでしようか?
アメリカのコーヒーも薄くまずっかた。ヨーロッパでは カフェアメリカンと呼んでいた、それより、薄かった。飲料といえば主に、水 の中国。誤解が
ない様に付け加えます。中国にはモノとあらゆるサービスがあります。甘いお茶から RED BULLまで数十種類の飲料。私の地方で、水をお客さんに出すのは失礼なこと。水はタダです。そして韓国では多くの食堂にセルフサービスの無料のコーヒーマシンが置いてある。13億の中国人が、あの苦い飲料をすすりだしたら、コーヒー豆の相場が高くなるばい。反面、雑林でしかなっかた、雲南省の農家にとっては、コーヒーの木が金のなる木。赤道に沿う経済的に恵まれない国々の豆生産地は潤う。日本食文化の普及は嬉しいけど、水産資源が減ってくる。再度あの、中国人。野菜でも火を通してしか食べない中国人が、現在の中国人にとって気持ち悪いナマ魚(さしみ)の味を覚えると大変なことになる。アメリカ人にとって、ゲテモノ生物の代表の タコ このタコが 値上がりして 庶民の食べ物でなくなると 浅草の、たこ焼き店の青年が言っていました。2012年の五月頃。要するに、あの時代から食生活はアメリカより充実していた。

#115

#98 小言おやじのお説教かね!
楽しく読んでたのに急に興ざめしてしまった。

#114
  • chichi1234
  • 2013/09/16 (Mon) 15:05
  • 報告

又、脱線です。 :-)

外の世界が広く開けた1967年のビートルズ来日は私の人生での最大の転機でした。(その少し前、学校をサボって名古屋までヤア―ヤア―ヤア―(A hard days night)の映画をこっそり見に行った事はいつまでも忘れもしません)
最近マタマタお蔵入りしていた音源を掘り起こしビジネスネタにした。(動画参照)
http://www.youtube.com/watch?v=HLONr5IoIt0&list=PL52971DB13EE20C8E
世に出る少し前の音源ですが、^^自分勝手に我々の音の方が???と思えます。
しかし、彼らのシンプルな英語と素晴らしいハーモニーは衝撃的なインパクトを与えてくれました。
我々も彼らのモテモテを真似したく、必至にコピーしようとしましたが、、、

アメリカ出発前のかけがえない一ページでしたね。:-)

#116
  • chichi1234
  • 2013/09/16 (Mon) 17:33
  • 報告

それから4年後、、、、:-)

1972年末に一度アメリカを離れ、75年初めに再上陸したんですが、、、、、

最初に正式な食(?)についたのが旅行業界で10年間続けました。
この期間もさまざまな思い出は詰っていますが、その時の社長さんがブログで私のその当時の大失態を日記にされています。

いまでもそのは死ぬほど恥ずかしい(大げさか?)なものです。:-)

そのリンク(文才があり中々の筆力です)

http://blogs.yahoo.co.jp/honyakuusa/archive/2008/07/10

#117

chichi1234さん、ぶらじる丸さん
私めの余計な一言、ポジティブに受けとってくださって良かった!さすがです。
もう私の言った事気にしないで、自由に堂々と書いてください。すいませんでした。
#115 親父じゃなくて済みません。(女です)

#119

前を見るようなガラじゃない、後ろを向くようなガラじゃない、よそ見してたら泣きをみた。

振り返ればはるか彼方に故郷が見える。

ちょっぴり寂しくて故郷を振りかえってもそこにはただ風が吹いているだけ。

もう戻って来ないあの楽しかった日々。

#118
  • chichi1234
  • 2013/09/17 (Tue) 12:29
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今後もここで皆が気持ち良い時間を過ごせるように願っています。

こんな感じ=> http://www.youtube.com/watch?v=uPHmsEoLsL0&feature=player_embedded

#120

#119さん。その退廃的な投げやり心情の歌と寂しい歌が日本で流行ました。私にはふりかえれば、幸いにして我が恩師、犬童球渓先生を輩出した美しい、暖かいふるさとがあります。人生半ばを過ぎると、私は器が小さいので、私と同世代の他人の人生は如何だったか気になります。誰かの言葉で(寅次郎先生かな?)、ひとの幸福、運、チャンスは、それぞれの人に、平等に回ってくる、と聞いたか、読みました。社会経験薄い、年軽な未熟者だった私が、過去に知り合った人。仕事や遊びで関係した人に私の言動で不快な感情を与えたのではないか、その人を利用し、感謝の表現を欠いたのでは等と想い起こすと、自責の念にかられます。お世話になったあの人たち。

ばってんが、今からでもその人たち対して、感謝の行動と表現はできると思込でいます。1970年代、行かなくても良い、野蛮な国(ベトナム戦争の影響)アメリカへ出発の日、母ちゃんが父に内緒でゼン(金)をくれませんませんでしたか? きれいな姉さんと、思ったより可愛い妹が、涙を浮かべて見送りに来せんでしたか?
親孝行や感謝など、人により、いろいろな表現と行動や、 方法ができると思います。

里帰りしてますか? 手紙や電話で交流してますか? 経済的余裕ができたときに、お世話になった人、家族を招待して成功している姿を見せびらかして、安心させましたか? 偽善者と言われようが、身近な人や団体に良いことしてますか?
例えば、母ちゃんが所属する、ゲートボールクラブ、老人会、町内会への寄付。

同世代の諸氏、年齢を重ねたから、人生の黄昏と思い込んで、保守的になっていませんか?。やり残したこと、あきらめていませんか? 例えば旅行。空気が薄い場所に在る遺跡。独特の宇宙観をもつ、アステカの神殿。インカ マチュピチュ遺跡,チベット、日本人シニアが 資産を使って、岩山に登山道を 作った桂林。文化遺産 富士山など、登るとキツイ。アマゾン、リオ,排気の PM25、鳥インフルエンザ,反日感情 3点セットの中国。神秘で空恐ろしい北朝鮮、その他 知的興味や、好奇心に任せて、行動するのは私には、許されます。

私の、この偏った、価値観や考えが、受け入られるとは、思っていません。充分承知しております。非建設的な批判は控えてチョ。小心者だけん傷つく。

1970-80年代の皆さま、短期、中期、長期的に見て多少の差があれど。恵まれた方、得をされた方、そして、困難な時期を経験されたもおられるとおもいます。しかし、前向きで、はやりの、草も吸わず、真面目に努力してこられたのではないでしようか?

私の、パートナーの女性は、安給料の代名詞、LA DOWNTOWNのガーメント地区の、縫製工から、アメリカ生活をスタート。そして住友銀行の窓口、夜は赤坂飯店だったか中国料理店。(小東京にある二階)で案内係、その後少し頭を使う、日本興行銀行の事務員。その後、鉄を扱う商社で長くお勤め。おおくの同年代の奥様や女性にとって、当然で、疑問ももたず、特別なことでないと、おもいますが、フルで働き、家事、子供学校送迎。一人で二役、三役していました。この女性は一緒に頑張って人生を切り開きた、同志みたいな存在です。悪いことできんばい。わからん様にせんと。

#122
  • 京都から博多まで
  • 2013/09/18 (Wed) 11:51
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  • 消去

120は現在、過去、未来が一緒になっていてつかみどころがない。

#121

ぶらじる丸さん

文章を書くときに「、」が多すぎると読みにくいので注意されたほうがいいと思います。
いらないところにも「、」がいっぱいついています。

ご注意あれ。

#123
  • エドッコ3
  • 2013/09/18 (Wed) 12:14
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#121 さん、私もその傾向がありますね。でも句読点が全然ないのも読みにくいもので、その中間ってぇところが非常に難しい。私は西村京太郎の小説を読んで参考にしました。彼の文章は思ったより多く入っています。

#124
  • chichi1234
  • 2013/09/18 (Wed) 12:50
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1971年夏、最初のLas Vegas

あのNew York Hotelにいた老人(?年金生活者)Tomさんが『ミーがユウ達をべガスにテイクしてやる』と誘われ、初めてLas Vegasへ彼のオンボロFordで行った。

深夜出発でべガスには日の出後にそのDownTownへ到着する。 朝方であったこととMainのStrip通りではなかったので、その街並みは予想に反して寂れたような印象があった。

『べガスはノースリープだからホテルはノーニードね』とあの二世独特(実際は一世か)の日英語チャンポンのアドバイスが懐かしい。

ナケナケの$20札を握りして一晩過ごしたのは今では信じられな
い。
この老人は極めてタフで片道5時間の往復を一人で運転したが、その往路の初めて見る砂漠の連続する景色にも感動したのである。

Tomさんだけでなく、New York Hotelで時間を持て余していたような諸先輩から聞かされたその体験談はそれぞれ感動的で又感無量であった。 :-)

#125
  • chichi1234
  • 2013/09/18 (Wed) 13:10
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私の乗船したアルゼンチナ丸が最後の移民船と聞いていましたが、実際は72年まで継続したんですね。

ウィキペディアよりの情報:

1963年(昭和38年)に日本移住船(現:商船三井客船)が設立され、「あるぜんちな丸」を含む5隻の移住船は新会社に移籍した上で、大阪商船の裸用船として南米航路に就航し続けた。

ところが、1964年(昭和39年)の東京オリンピックを過ぎると移民の退潮は一層大きくなって年間1,000名を下回るようになり、「あるぜんちな丸」の船客定員は1965年(昭和40年)以降半減され、航海回数も年3回と削減された。
運航形態そのものもクルーズ客船のはしりのような感じとなって移民から大きく離れていくこととなったが依然として収入は上がらず、親会社の大阪商船三井船舶に用船に出されて船客スペースのみを商船三井客船が販売するという有様であった。
1972年(昭和47年)、「あるぜんちな丸」は「にっぽん丸(初代)」と改名して引き続きクルーズ客船として運航され、1976年(昭和51年)12月10日に売却されて台湾に回航され、高雄で解体された。

#126
  • 無関係
  • 2013/09/18 (Wed) 16:56
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chichi123さん、
そうですね、私も砂漠の風景は感激しました。
夜みると気味の悪いジョシュアツリーや、映画で見た
西部劇を堪能させる風景ですよね。

ところで、数年前に甥っ子とその友人2人が大学の
卒業旅行で来たので、LVまで車で連れて
いったのですよ。そして、途中で
丁度、夕日の見られる時間になり車の中で、
“どう、日本では見られない風景でしょ”
と後ろの座席を振り返ったらなんと
ピコピコとゲームをしてるじゃないですか。
お返事は“うーんそうだね”と生返事。
そのくせ、アウトレットでは安いといって
山のようにお買い物。おまけに言ったことが
“おばちゃん、アメリカはブランド物が安くていいね”
でした。

いまどきの子は、あの風景に感激しないのでしょうかねえ?

トピずれごめんなさい。

#127

#126 無関係さん
あははと笑っちゃいました。良くわかります、その気持ち。
そして似た様な話、何度か聞きました。
今の子ってなんで、ああなんでしようかね。
私と子供が、何処かにいくと、どちらが子供か親かと言う状態になる事が多々あります。
親の方が興奮したり感激したり「ほら、見て、見て!」娘はTextに夢中かゲーム、あるいは寝ている。
知人は、日本から大奮発して、中学生の息子達を観光旅行に連れて来たはいいけど、さぞかし喜ぶだろうと言う場所に張り切って連れて行ってあげても、目を輝かせてるのは自分で、息子達は何処へ行っても無反応状態、Coolと言うか冷めているというか。彼は、ついにブチ切れたそうです。「もう2度と連れて来てやんねえぞ」と。

#128
  • chichi1234
  • 2013/09/19 (Thu) 09:42
  • 報告

#126 #127

まさに最近のIT文化の功罪ですね。:-)

我々も気を付けなければならないとも思いますが、サイバーと現実世界が混同、混乱して『一番安易な気持ちいい世界』への逃避しないように。。。。。*!*

男が女を求めず、車にも興味なく、一生懸命汗をかく事を『グサイ』とする雰囲気は何故か危険なニオイがする。 !^)

#129
  • chichi1234
  • 2013/09/20 (Fri) 09:40
  • 報告

追伸2:

悟り世代?

今の流行語だそうです。

iPhoneでの情報で十分と達観している若者達のことを形容していますね。

#131
  • chichi1234
  • 2013/09/30 (Mon) 17:46
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71年前後のヒッチハイク

アメリカ上陸の前に1カ月半かけて夏の北海道一周のハッチハイクしました。
当時はカニ族と呼ばれるブームがあり、線路伝いに蟹のように見えたヒッチハイクの一団ニックネームでした。『北の国から』はずって後のことです。
岐阜から始めて名古屋、東京の大都市を通り過ぎるのには一苦労したことは今でも覚えています。 青森函館間も無銭乗車(長距離トラックに乗っけて貰った)含め往復の旅程では一切公的交通機関は利用しなかった。(北上するにつけ、人の温かさが増したことも鮮明に記憶しています。)
北海道では牧場、漁港での一宿一飯のお返しに重労働も良い思い出です。

そのヒッチハイクでは良い思い出ばかりで何の障害もなく、その旅を完了したことが自信につながりましたね。 確か1万五千円を懐にしたと記憶しています。
(日本では特にトラックの運転手が大変ヒッチハイクに対して良い印象を持っていたのでしょうね。*又は退屈しのぎに乗っけてくれたのか?も知れません)

71年春から72年暮れまで全米内の旅行はすべてヒッチハイクでしたけれど、難なくスムーズに車を確保出来たが、、、
Easy riderの映画を見るの、南部方面は本当はヤバかったかも?

LA市内(Northridgeに大半滞在した)特に英会話の実地勉強で色々なキャンパスめぐりでも全く問題はなかった。
(当時はギターをぶら下げていたことも有利であったかも???)

そして、ティファナ経由で南米放浪開始したのである。4カ月半ほど中南米を旅したのではあるが、やはり大部分が交通量も少なく、Local bus等は極めて安価であったので、半分位はそれらを利用した。

しかし、中南米のどの国の人々も日本人に対して好印象をもっており、圧倒的に貧しい方々と接したわけですが、本当に親切にされたのを忘れられません。:-)

#132
  • chichi1234
  • 2013/10/05 (Sat) 10:21
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マタマタ脇道へ、、、、

ビートルズから始まった、、、

海外への夢が膨れ上がったのがBeatlesでした。

岐阜の田舎でその世界に触れたのが外に飛び出したきっかけでしたね。 アメリカ上陸後もBeatlesの音楽が外国人との接触に大きく役に立ったのは事実で、また下手糞なギターと音痴でヘンテコリンなアクセントの歌が珍しかったのでしょう。。。。

ニコニコ動画でその世界が再現されています。 (注:#1と#2があります)

http://www.nicovideo.jp/watch/sm10303210?ref=search_tag_video

その後Englandにも長期滞在しましたけれど、71年の最初の青い空の下でのUCLAキャンパスでの思い出は鮮明です。。。。:-)

#133
  • chichi1234
  • 2013/10/07 (Mon) 11:29
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この落書きからか? 40数年前に知り合ったShigeさんから連絡があった。

Shigeさんには日系人収容所跡へ連れて行った貰いましたが、その時は砂漠の中に何もない場所で、そんな場所にカリフォルニア近郊から全日系人を集め前の大戦中の間、全財産を失くした日本人が集められたのである。

Shigeさんは農業移民で一生懸命働いたものを全て失くしたとのことでした。

その時代収容所に集められた日本人がどんな気持ちでスゴシタのか?とても理解することは出来なかった。

その収容所内でも勝ち組負け組の軋轢が日本人間でもあったとか?(特に、放浪中の中南米の日系人にはこの勝ち組負け組が色濃く残っていた。)

マンザナール収容所の情報は下記参照
http://explorer.road.jp/us/ca/easternsierra/manzanar.shtml

ShigeさんはEastLAの老人ホームに居て、お歳の割には元気で会話も難なく出来る状態でしたので、小一時間またまた当時の話を聞かされました。

日本の老人ホームは知らないが、訪問したホームは予想したよりも遥かに綺麗であったのが幸いでした。。。 !*;)

#134
  • chichi1234
  • 2013/10/23 (Wed) 11:05
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ご無沙汰でした。 :-)

大好きなビートルズのアンプラグ版をYoutubeでみつけました。

http://www.youtube.com/watch?v=bH78eeuy4Bs

こんなアコスティックな音源は雲の上の存在でなく、距離を近く感じます。 でもほんと上手いですね。

アメリカ入国時とその後滞在中の記憶が蘇ってきました。

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